2001年9月11日、日本時間10時前後。アメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の飛行機が突っ込んだ。
それと同時にペンタゴンにも飛行機が突入した。俗に言う米同時多発テロである。
他人事であるはずのこの事件における精神的ショックが大きかった
(ここで言う他人事というのは自分の親戚・知人が被害にあっていないという意味での他人なので誤解なされぬよう…)。
いろいろとニュースをTVやらラジオやらインターネットやらで見たり聞いたりしていくうちに疲労感がどっと押し寄せてきた。
話は違うのだが、大阪の児童大量殺人事件で取り上げられているのが児童の精神的な傷についてである。
見当違いもはなはだしい事を最初に断っておくが、その当時のうちの精神的状況はその児童に酷似していたかもしれない。
もっとも、児童の傷はこれの何倍・何十倍だとは思うのだが…
これを受けて3つのキーワードが浮かび上がってきた。
1. 平静を保っている街
アメリカの首都が今大変なことになっているのにもかかわらず、
自分は今日日曜から調子の悪かった携帯の修理に行ってきた。対処は機種交換ということになったのだが別にそんなことはどうでもいい。
かたや街は大混乱、かたや携帯を交換してもらった自分。その相反する状況が同じ時間軸で発生している。
時間軸が同じなのにかたや大混乱の街、かたや忙しい街。そのギャップにとてつもない違和感を感じた。
と書いてはみたものの、内戦・紛争の類は中東ではうちが「平和」と思ってたときにも起こっていたと思う。
それが大々的なことか否かの話。それで気分的にどうかしてるうちもどうかしてると思う。
2. 生きる時・死すとき
今回のテロで何千人・何万人の死者が出ると言われているが、人の死に方も、その伝え方も様々である。
病気で亡くなっていく子ども。才能を持ちつつ夭折する人。何者かに殺されてしまう人。
「生きたい」と願いつつもかなわなかった人。リストラ・借金を苦に自ら命を絶つ者。天寿をまっとうして眠っていく人などきりがない。
みんなへの伝わり方、葬儀の仕方も様々である。特に今回のように多数の死者が出た場合、
だいたいはTVなどではないがしろにされてしまう。
一方、神戸の中学生が殺されたときはその様子までもがある種生々しく日本中に伝わってしまう。
天皇陛下が崩御されたときの大喪(葬?)の礼ではすべての放送局がその模様の生中継する。崩御されてからは数日間、
TVはほとんど番組を休止していた。
なんか話があっちこっちに行ってしまったが、同じ「人が死ぬ」ということでもこんなに違う。
悲しみの度合いもばらばらだと思う。生きている、故に避けられない死。
このようにしてこの「死」を迎えてしまった人にこんな場ではあるが、心からの御冥福を祈りたい…
3. メディア、どうよ?
世界の中心であるアメリカ(自分はそうは思いたくはないが…)
がとてつもない被害を受けたというニュースはもちろん日本でも大々的に報じられているのだがここで納得いかないことが1つ。
事件があった22時(現地NYは9時)から一晩中このテロに関するニュースが各局で報じられた
(一部例外はあった。日本秘密結社もといN○Kの第2は平常だったし、とあるAMラジオ曲は平然と普通の番組を進行してた)。
そして今日なのだが、新聞のテレビ欄は所々に緊急枠を作ってこの事件に関する報道をしていた。
それははっきり言って問題ない。問題なのは普通の番組をつぶしてこの事件の特番を打ったところ。
だったらなんの為に夜のニュース番組があるの?特番やるのだったら最初から緊急枠作れば良かったのではなかろうか。
その番組を楽しみにしている人にとって失礼に値すると思うのだが。番組つぶして特番打ってる割には内容はさっぱり。
何処かの軍事評論家呼んで誰がやったとかそんな事ばっか。同じ事の繰り返し。
もう知らない人は日本中探してもいませんので何回もやらなくて結構でございます。
まぁ、その中で会見があったりしたときはまあよしとするが、
そのときもL字テロップやワイプ(いわゆる子画面)入れて伝えたり「番組の途中ですが…」みたいなものを入れればいいのではなかろうか。
もっとも会見と言っても急展開するものではなかったし、
22時くらいのニュースで伝えればいい内容であると思う(見てないので何とも言えないのだが)。
情勢というものはいつ、いかなる時に変化するとも限らない。今回は事件直後のことを中心に書いた。
でも書き足りない部分がいっぱいある。でも自分の頭の中でまとまっていないので後日第2弾として書こうかなと思っている。
でもこれだけはいっておく。アメリカの今やろうとしていることは必ずしも正義ではない。
確かにテロというのは卑劣で許すことはできないと思う。一種の主張的な行動として受け入れなくもないがその代償はあまりにも大きい。
でもその武力を受けたことを武力で返すのははたしてそれ、正義なのだろうか。