speakin' talkin' 2002年 5月28日



 最近「人と話す」という事に注目が集まっている。もっとも、自分の中だけなのかもしれないが…
 でも注目が置かれていることは事実だと思う。一昨日昨日と「言葉」に関する番組を偶然にも3つ見聞きした。

 1つ目は「日本語」に注目を置き、「詩のボクシング」というものを取り上げた。 詩のボクシングとは、同じ詩を2人が読んでどちらが上手だったかを競うもので、 番組ではこの詩のボクシングを学校教育に使っている小学校を取材した。
 またこんなこともやっていた。小さな紙にテーマが書いてあり、それを1枚引いてそのテーマから即興で詩を詠むというもので、制限時間は3分。 紙に書くことは許されない。いわゆるメール世代の女子高生がこれをやってみたらもう目も当てられなかった。 それに比べてこのクラスの子は、消しゴムというテーマですらすらと詠んでいた。

 2つ目は携帯電話についての話題で、1日でメール120通、月の電話代が7,8万円という20歳の女性に密着した。 彼女は一人暮らし。その寂しさを紛らわすために携帯のメールをしており、電話代を支払うために月の食費は1万円、 洋服も自作というからこれには頭が下がる。
 で、そのメールの内容というのが本当にたわいもないことで、仕事が終わって家に着いたらメル友に「ただいま」のメールを送るという。 彼女曰く、一人暮らしだからただいまを言ってくれる人(すなわち親)がいないので、それを言ってくれる人がメル友だという。

 3つ目はラジオからの話題。「話を聞けない人が増加している」という。これは5月16日の日経新聞夕刊の話題らしいが、それによると…

人の話が聞けないが増えている。本人は耳を傾けているつもりでも、 結果的に話をさえぎり、口をはさんだり、相づちで話を促せなかったり。
"最近、話の腰をよく折られる"と不満を持つ人が多いのでは。
との書き出し。
この原因について、核家族化、携帯電話・家庭用ゲーム機の普及にあるとしている。

 ここまで長々と事象をあげて説明したが、何を言いたいかというと「日本語の危機」ということになるでしょうか。 携帯電話、特にメールの発達によって話すことなく意志の疎通ができるようになった。 しかしそれは、裏を返すと「話すこと」が少なくなっているということである。 最近、携帯電話・メールの発達によって家庭内におけるコミニュケーションが密になったという話を聞く。 ま、それはそれでいいのかもしれないが、コミニュケーションの本心が失われつつあるのではないかという声も聞かれる。
 同じコミニュケーションである「話すこと」と「メール」の違いはなんだろう。これを考えたとき、一つの憂うことが現れてくる。
 メールに始まる文字でのコミニュケーションはやり直しがきく。どういう事かというと、まず思ったことを書く。 もしそれが「あ、違うな」と思えば削除すればいい。で、また書き直せばいい。
 でもしゃべることっていうのは原則やり直しがきかない。言ってしまったことはその後訂正したとしても、 その発言自体をなかったことにして、ということにはならない。
 あと、話すことっていうのは線のコミニュケーションであるのに対して、メールなどは点のコミニュケーションであると思う。 時間軸で考えてみるとわかると思うのだが、線のコミニュケーションは自分の意見を伝えるのに時間がかかるのに対して、 点のコミニュケーションは一瞬にして自分の意見を文字という形にして送ることになる。

このような、いわゆるクローズなコミニュケーションに慣れてしまうと怖いのが、 社交性の喪失という問題である。仲間内だけで通じる言語というのが、メールの絵文字によって確立されている。 近い友人とならばそういうクローズな言葉を使えるのだが、社会に出てしまうとそうもいかなくなる。 クローズな言葉自体は別に悪くはないと思うのだが、それが一般的にならないことを切に願う。

 メール等に代表されるデジタルコミニュケーションによって徐々に追いやられているアナログなコミニュケーション。 自分も携帯を持っているしメールもする。でも微妙に空しくなるのは何だろうね。その理由がわからなくなった時、 それはアナログなコミニュケーションの最期なのかもしれない。

(2002年5月28日、17時58分)

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